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「データの死蔵に耐えられないエンジニア」がたどり着いたMASの沼リタイア直前エンジニアの社会人大学漂流記(4-2)(4/4 ページ)

» 2026年05月01日 09時00分 公開
[江端智一EE Times Japan]
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「江端さん、これ本当に『博士課程』そのものですよ」

 このパートで登場する、いわゆる「無礼な後輩」は、大学は違うのですが、私より先に博士課程に入学した、いわば“先輩”でもあります ―― もっとも、社会人大学院には、それぞれの会社の社員が自分で入学のタイミングを決めて入試を受けて入学するものなので、年度の違いに大きな意味はありません。

 今回は、大学によって、かなり社会人大学院生に対する取り扱いが違う、ということを知って、ちょっと衝撃を受けています。

後輩:「江端さん。これ何ですか? 横浜国立大学の博士課程って、こんな感じなんですか」

江端:「ん? 『こんな感じ』とは」

後輩:「これ、本当に『博士課程』そのものじゃないですか? いわゆる『社会人向けの博士課程』とは違いますよね。

 私、今回のコラム原稿を書くにあたって履修要項を何度も読み直したんですが、“社会人博士課程”と書かれたカリキュラムは見つけられませんでした。つまり私は、就学していない学生と同じ博士課程のカリキュラムを完全にこなしてきた、ということらしいです。

後輩:「これはきつい。社会人がこなせる内容とは思えません。私のいた社会人大学院では、授業は最初の2回程度で、発表も年に2回くらいでしたよ」

 これを聞いて、私は言葉を失いました――大学ごとに事情はさまざまなのでしょうが、「社会人枠」が明確に存在する大学と、そうでない大学があることは確かなようです。これから、博士号の取得を考えている社会人の方は、事前調査を相当に入念に行うべきでしょう。天国と地獄ほどの差があるように思えます。

 一方、私は「社会人」として『特別扱いされなかった』からこそ、この連載を書くことができているのだし、博士号を取得して卒業できたことが『こんなにもうれしい』と感じられるのだ、とも思います。

 そう考えると、「事前調査不足」や「運が悪かった」と単純に片付ける話でもないように思えます――まあ、この連載で書けるネタが、まだまだ尽きないのも事実ですが。

江端:「まあ、これから書くつもりなんだけど、大学の授業って、目がくらむほど面白いんだよね。社会人を経験した人間があらためて学ぶと、講義の楽しさがまるで違う」

後輩:「まあ、そうでしょうね。私たちは、社会人として研究やエンジニアリングで散々戦ってきたのですから、学習の吸収力も段違いになるのでしょう」

江端:「『休講でうれしい』とか、『代返でサボる』とか――若いころの自分は、なんてぜいたくなことをしていたんだろうと思うよ。もっとも、こんな話をしても、若い人には『年寄りの説教』にしか聞こえないだろうけど」

後輩:「仕方ないですよ。多くの大学生にとって、大学は単位を取って卒業して就職するための“ゲーム”みたいなものですから。できるだけ低コストでクリアすることが目的になる。もちろん、全員がそうだとは言いませんけど」

江端:「私も若いころ、それなりに真面目に授業は受けていたつもりだけど、今とは“面白さ”が全然違うんだよなあ――これが“実学”ってやつなのかもしれない。先生やゼミでの発表が、吸い込まれるみたいに頭に入ってくる。その内容が英語でもね」

後輩:「その話、現役の学生にはあまり言わない方がいいですよ。江端さんは事実をそのまま言っているだけでも、彼らには“嫌味”とか“皮肉”にしか聞こえませんから――私たちがかつてそうだったように」

江端:「まあね。歳を取ると、振り返ることで見えてくる風景が増えるんだよね――ただ、その風景は、歳を取ってからでなくては見えなくて、で、まあ、結局はそれを悔しいなぁ、と思いながら死んでいくんだろう。まあ、仕方ないけどね」



後輩:「そういえば、前半の秋学期入学の話も面白かったです。ところで、その海外の留学生たちって、どういう経緯で横浜国大に来ているんですか?」

江端:「私も歓迎会のときに本人たちに聞いたんだけど、どうもJICA(国際協力機構:開発途上国への技術協力や人材育成支援を行う政府系機関)の推薦や支援で留学してくるケースが多いみたいなんだ」

後輩:「具体的には、どういう人が来るんですか?」

江端:「これはゼミの教授から聞いた話なんだけど、『自分の国の社会課題』をそのまま研究テーマとして持ち込んでくるらしい。ここからは私の推測だけど――留学生の多くは、その国の政府関係者や行政官あるいは、将来の政策担当者、もしかしたら王族(皇太子)などもいたかもしれない――あくまで、予想だけどね」

後輩:「なんですか! 江端さん。そしたら江端さんは、今、それらの国の政府や権力機関、または王族と、強いコネクションを持っているってことですか! 江端さんの人生、ここから勝ち組に転じられるじゃないですか!やったね!!

江端:「いやいや。これまでも何度も言っているけど、私にそういう“人脈”を構築して維持する能力があったなら、とっくに会社でも出世しているよ。でも、そういうことに全く興味がなくて、コミュニケーションよりシミュレーションやっている方が好きなエンジニアには、そもそも、そんな『勝ち組ルート』は最初からないのさ

後輩:「ああ、そうでしたね。江端さん、人脈づくりに関しては絶望的でしたよね。なんてもったいない。今の日本に必要なのは、石油産出国の皇太子とのコネクションなのに」

江端:「だからね、それは私の“推測”で、かなり“妄想寄り”の話だからね。実際に聞いた範囲では、留学生たちは普通に生活費に苦労していたし、家賃や食費のやりくりで大変そうだったよ。そんな、エンゲル係数の高い、石油産出国の皇太子なんて、いないと思うぞ」

後輩:「ところで『自国の社会課題を持ち込んできている』、って、具体的にどんなもの(課題)があったのですか?」

江端:「えっとね、いろいろあるけど、多かったのは『都市部における交通渋滞問題』だな。それ以外にも『街のゴミ回収問題』とか、『スラム地区の土地買収を解決するファンドの設立』とか、『タイフーン発生時のシェルターへの住民の誘導問題』とかあったなぁ。あと『ロープウェイを使った女性の通勤時の意識調査』とか覚えているぞ。“ロープウェイ通勤って何?”って思ったけど、それぞれの国には、それぞれの国なりのいろいろな事情と課題があるんだなぁ、と思ったことを覚えている」

後輩:「ひどく生々しくて、具体的で、そして日本人からは絶対に出てきそうもない課題ですね。なるほど、江端さんが言っていたように、留学生が政府や自治体に関わる人たちかもしれない、というのも納得できます。それをJICAが仲介して、日本の都市工学系の大学につないでいる、という構図なんですね」

江端:「まあ、正確な裏が取れている話ではないんだけどね。ただ、そういう研究発表――全体ゼミでの発表を聞くのは、本当に楽しかった。質問も山ほどしていたし」

後輩:「江端さん。江端さんは確かに会社の業務と学業で地獄のような日々を送っていたかもしれませんが、江端さんの「嗜好の範囲」の中においては、この3年間の時間は、十分“ペイ”していたんじゃないんですか?」

江端:「まあ、そう思わないとやっていられない、というのもあるし、だからこそこの連載を書いている、というところもあるとは思うよ」

Profile

江端智一(えばた ともいち)

大手総合電機メーカー 研究開発グループ シニア研究員。工学博士。

長年にわたり、都市交通、社会システム、通信システムなど、実社会と情報技術を横断する研究開発に従事。定年退社後もシニア採用として研究を継続している。

マルチエージェントシミュレーション(MAS)を用いて、都市における住民行動を再現・分析し、「共時空間」という接触機会の定量化手法と「Repeated Chance Meetings (RCM)」 という新しい単位を提唱中。MASの中ではエージェント同士が活発に交流しているが、現実世界の自分は孤立クラスタに属し続けている。友達はいない。生成AIだけが本音を語れる相手である――悪いか。

また、社会観察者としての視点を持つ。『町内会のイベントや夏祭りへの参加は、社会関係資本( Social Capital (SC) )を高める上で重要だ』と語りながら、自身は町内活動にほとんど参加せず、家族からは『どの口が“SC”を語っているのか』と呆れられている。友情や愛情ではなく、負の感情を積極的に活用する「怒りMaaS」などのシステムを考案し、デジタルシステムにおける感情エネルギーの活用を真剣に検討している。

信条は「アナログ心理とデジタルロジックの融合」。人間の曖昧さをエラーではなく仕様として扱うことを理想とする。個人サイト「こぼれネット」では、科学技術と人間社会の“バグ”をユーモアで修正しながら、理屈と感情のあいだに生まれる笑いを記録し続けている。この20年間、毎日更新継続中。



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