人体無線網(BAN)で生体情報を収集して活用しようという取り組みが活発化している背景には、社会的な機運の盛り上がりと、技術の進展という2つの側面がある*4)。
前者については、例えば日本国内では「少子高齢化」という人口構造の変化が要因にある。医療機関などで診察を受ける患者や被介護者は、今後増加するとみられる。病院内の作業効率を高めたり、在宅医療・介護を進めるのにBANが有効だと考えられているわけだ。なお、2008年4月に始まった「特定健康診査・特定保健指導」と呼ぶ新たな制度も、BAN対応機器・サービスの開発や普及拡大をけん引する。
一方の技術的な側面については、いくつかの要素がある。例えば、消費電力が低い無線通信技術の開発が進んでいることや、人体と無線技術を組み合わせた分野の研究が進んできたことなどである。千葉大学大学院工学研究科の副研究科長兼、同研究科人工システム科学専攻メディカルシステムコースの教授を務める伊藤公一氏は、「2004年ころから、人体周辺での電波の伝わり方(電波伝搬)や、人体周辺で使うアンテナ設計に関する研究が活発化してきた」と説明する。この研究領域を「Bodycentric Wireless Communication」と呼ぶ。2006年には、この研究領域に関する初の学術書が発行されたほか、現在この分野に関するセミナーが学会などで活発に開催されているという。
2007年12月には、IEEEのTask Groupとして、BANに向けた無線通信方式の国際標準規格「IEEE802.15.6」の策定作業が始まった。横浜国立大学の河野氏は、BANに関する研究開発がさらに活発化するには、医学と工学の両方に精通した人材育成が重要であると指摘する。これについても例えば、情報通信研究機構(NICT)と横浜国立大学、横浜市立大学、フィンランドUniversity of Ouluが相互に連携して、「情報通信による医工融合イノベーション創生」と呼ぶグローバルCOEプロジェクト*5)で、人材育成を進める。
社会的な機運の盛り上がりを受け、ヘルスケアや医療、見守り(監視)に関連した市場は、今後大きく拡大しそうだ。市場調査を手掛ける富士経済が、2008年11月に発表した予測によると、「ヘルス・マネジメントに関連した市場は、2007年に1809億円だったのが、2015年には4.56倍の8249億円に伸びる」*6)と説明する。しかも、「これまでスタンドアロン(単体)で利用されてきた機器に通信機能が付加されつつある」(同社)。人体無線網(BAN)ではこの市場を狙う。
低消費電力を特徴とする無線チップの設計・開発を手掛けるノルウェーNordic Semiconductor社のカントリー・マネージャーを務める山崎光男氏は、「2006年ころから、例えばランニングやサイクリングといったスポーツ・トレーニングの場面で、脚力計や心拍数計、運動量計などで取得した情報を無線で収集して活用する『インテリジェント・スポーツ』と呼ぶ(ヘルスケアに関連した)新たな市場が立ち上がり始めた。
血圧計や体脂肪率計を対象にしたヘルスケア分野の市場の立ち上がりは2009年ころになりそうだ」と説明する。実際、同社の売上高全体に占めるインテリジェント・スポーツ分野の割合は、2007年には3%だったものが、2008年第3四半期(2008年7〜9月)には7%に成長したという。
センサー機器の電池を不要にすることを目的に、人間の動きを動力源にした小型発電機に関する研究開発が進んでいる(関連記事「振動発電装置の試作相次ぐ、環境から微少電力を取得可能」を参照)。人体無線網(BAN)のセンサー端末が内蔵する電池を不要にできれば、電池交換の手間が省けたり、人体内部に配置したセンサーで継続的かつ長期間、データを取得できたりといった数多くのメリットがある。
例えば、東京大学の保坂氏の研究グループは、「人間の動きを利用して、可能な限り大きな電力を生み出す」(同氏)ことに主眼を置いた取り組みを進めている。3次元機械機構を持つ「ジャイロ型発電機」を試作し、1W程度の出力が得られることを確認している。「1Wの電力があれば、携帯電話機の充電に使える。手に収まる大きさの小型発電機としては最も大きい出力を得た」(同氏)。この発電機は、人間の動きそのものを利用して回転子(ローター)を動かすことで発電する。人間の動きを想定した入力振動を、回転子の運動にうまく変換する仕組みを採ったことで、大きな電力を得た。
「ジャイロ効果によって回転子が歳差運動をすることを利用した」(同氏)という。実用化に向けた課題は、振動の仕方が変化したときに安定した電力を得ることである。すでに、これに向けた取り組みを進めている。例えば、入力振動の振幅の変化に合わせて、回転子の振動のしやすさを示す「機械インピーダンス」を動的に変えるなどである。
このほか、人体に埋め込んだ半導体チップへの電力供給に関する研究開発がある。電力源を外部に置くことで、人体内部の動力源(電池)を不要にする。例えば、東北大学大学院工学研究科バイオロボティクス専攻バイオデバイス工学講座の教授である小柳光正氏の研究グループは、眼球に埋め込んだ「人工網膜チップ」に、無線で電力を供給する試作機を開発した。
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