前回に続き、働き方改革から「リカレント教育」を取り上げます。現在のリカレント教育は「エリートによる、エリートのためのもの」という感が否めません。本当のリカレント教育とは、“キャリア放棄時代”を生き抜くための対抗策であるべきだと思うのです。
「一億総活躍社会の実現に向けた最大のチャレンジ」として政府が進めようとしている「働き方改革」。しかし、第一線で働く現役世代にとっては、違和感や矛盾、意見が山ほどあるテーマではないでしょうか。今回は、なかなか本音では語りにくいこのテーマを、いつものごとく、計算とシミュレーションを使い倒して検証します。⇒連載バックナンバーはこちらから
今回の冒頭も、前回の冒頭に引き続き「三角関数不要論」で始めたいと思います。
2015年の夏、鹿児島県の県知事が『女子高生は、三角関数より花や草の名前を教えた方がいい』と発言して大問題に発展しました。その後、この県知事は、世間の批判を浴びて発言を撤回したようですが、多分、この人が、撤回したのは、この発言の一部分だけ(女性蔑視発言の部分だけ)だけだろうと思っています。
つまり、この人は、「三角関数よりも花の名前を覚えた方がいい*)」という部分については、撤回していない(少なくとも本人の胸の内では)と思われます ―― これは、その後の弁明「人生で(三角関数を)1回だけ使いました」を見れば明らかです。
*)これは真面目な質問なのですが、花の名前を覚えることが、三角関数よりも有用に機能する場面を誰か教えてください(本気)。もっとも、「両方とも大して役に立たん」という話なら、私は納得できます。
この話、「女性蔑視問題」に隠れてしまっていますが、実はもっと根の深い問題があります。それは「軽視/蔑視しても良い勉学が存在する」という考え方です。
恐らくこの県知事だけでなく、そのように考える人は、日本中にかなりの人数が存在しているのではないでしょうか(口にしないだけで) ―― それが、最も現われやすい形で、かつ、多くの人の同意を得やすい便利なアイテムとして使われ続けているのが「三角関数」なのです。
でも、別に「三角関数」でなくたって、
「古典のラ行変格活用よりも、花の名前を覚えた方がいい」
「4大文明の発生地よりも、花の名前を覚えた方がいい」
「10kmマラソンするよりも、花の名前を覚えた方がいい」
「難解な上に不愉快な内容の文豪の本を読むよりも、花の名前を覚えた方がいい」
「人生で1回も使わない英単語よりも、花の名前を覚えた方がいい」
というフレーズが登場したってよさそうなものです。しかし、このようなセリフは、見つけることができません。私には、それが、不思議に思えて仕方がないのです。
私、この件(三角関数不要論)について、かなり長い時間をかけていろいろな人と話し、さまざまな方向から検討しましたが、最終的には以下の結論に至りました。
―― いろいろ言っているけど、要するにお前ら、三角関数が嫌いなだけだろ……!
「嫌い」なものは素直に「嫌い」と言えばいいのです。数学の中でも、特に「三角関数」が嫌われることには、それなりの理由があると思っています(後述します)。
しかし、自分の主観的な「嫌い」とか「苦手」を、客観的な多数の意見に見せかけた「不要論」として展開することは、ずるい上にひきょうです。
さて、話を戻しまして、先ほど述べた「軽視/蔑視しても良い勉学がある」と考える人が存在する(しかもそれは多数派である)という仮説に基づき、この場合、その「軽視/蔑視しても良い勉学」とは一体何か、というのを考えてみました。
前回の冒頭で、
ある教科の勉強の必要性 = その有用性 × その利用頻度
という考え方を導入したら、学校教育の全ての教科で必要性が否定され、「学校教育そのものが不要になる」という結論に至ってしまうことを説明しました。
そこで、今回、わが国の教育の歴史を数値で調べてみました。下記のグラフは、国内の読み書き/計算ができる人口比率と、尋常小学校への就学率です。
ある研究によれば、江戸時代末期には、寺子屋が1万6560軒もあったらしいです(ちなみに、今の日本の小学校の数が1万9892です)。そして、女性の30%、男性の50〜60%は、読み書きと基本的な計算ができるという、世界的にも例を見ない高度な教育が施されていたようなのです。
しかし、少なくとも170年前の嘉永5年には、「国家」という概念は存在しませんでした(当時は”日本”という言葉はなかった)。ということは、明治政府の掲げたモットー「富国強兵」「殖産興業(しょくさんこうぎょう)」と関係なく、当時、我が国は、これだけの教育レベルを実現していた訳です。
と、すれば考えられることは一つです。
―― 教育(への投資)は、儲かる(元が取れる)
という概念が、江戸時代末期において、特権階級(武士階級)だけでなく、広く国民に共有されていた、ということです。
なんのことはない、現代のリカレント教育(実学に基づく利益回収モデル)の考え方は、「江戸時代末期には既に確立していた」のです。
もちろん、江戸時代においても、性差による教育機会の不公平はあったはずですが、少なくとも、(冒頭の、『女子高生は、三角関数より花や草の名前を教えた方がいい』のような)女性軽視の観点ではなく、家制度に基づく家長優先の原則(経済的な理由)に因るものと考えるのが自然だと思います。
これは、私の個人的な所感ですが、江戸時代末期から現在に至るまで、教育システムの変化を俯瞰してみると、いわゆる「女性教育不要論」が、経済的理由ではなく、差別的理由で、露骨に登場するのは、実は「高度経済成長期」の、わずか30年間だけのように見えます*)。
*)関連図版:「女性労働の歴史(戦前)」と「女性労働の歴史(戦後)」
過去170年間を俯瞰して、わずか30年間の期間だけです(大切なことなので、二回いいました)。
高度経済成長期の「家族というユニット」でスクラムを組んで生きる時代は、とっくの昔に終わっている訳です。私たちは、家族というユニットがあろうがなかろうが、女であろうが男であろうが、実学で闘う時代 ―― 江戸時代末期の寺子屋 ―― に、立ち戻っている訳です。
このように考えれば、『女子高生は、三角関数より花や草の名前を教えた方がいい』の発言が、女性蔑視であること以上に、現状の日本の経済状況を把握できていない、絶望的な無勉強から発せられていることは、明らかなのです。
*)ちなみに私の娘たち(20歳と16歳)は、『花の名前の暗記程度で、三角関数の勉強の代替になるなら、大歓迎だよ』と言い放っていますが、この方は、どう責任を取ってくれるのでしょうか?
さて、ここまで論じましたが、それでもまだ、私は「軽視/蔑視しても良い勉学がある」のテーゼに答えていないと思います。
今回は、この問題についても考えてみたいと思います。
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