それでは、今回のコラムの内容をまとめてみたいと思います。
【1】今回は、前回に引き続き、政府が主導する「働き方改革」の項目の一つである、「教育」に関して、特に「リカレント教育」の観点からアプローチを試みました。
【2】現在、大学の提供している「リカレント教育」のカリキュラムは、そもそも知的レベルの高い人間だけをターゲットとしており、我が国の国民の"ITリテラシー"と"英語"のレベルの実績のデータ(推測)から、現実の社会において教育を必要としている人のニーズからずいぶん離れていることを示し、リカレント教育が本来の目的を達成するものになっていないという批判を行いました。
【3】リカレント教育の本来の目的は、江戸時代末期の寺子屋と同様、「読み書きそろばん」であり、ただ、その「読み書きそろばん」を展開するマーケットが、国内から世界へと拡張しており、それ故、読み書きに「英語」が、そしてそろばんに「パソコン」が加わっているという、江端仮説を説明しました。
【4】ところが、現代版の「読み書きそろばん」に対して、私たち日本人のリテラシーが、相当に低いことをデータで明かにしました。
【5】また、リテラシー教育には、その教育の効果を発揮するための「時間」というリソースが必要であることを指摘し、本当にリテラシー教育を必要とする8つの対象の人の全てが、その時間リソースを確保することが絶望的に難しく、現状のリテラシー教育は有効に機能しないだろう、と予測しました。
【6】最後に、仮説から導き出したパラメータを使って「リカレント教育」による効果のシミュレーションを行い、その結果、リカレント教育が目的通りの性能を発揮すれば人材価値が十分に向上することと、逆に、リカレント教育なしの無為無策な転職が人生をドロ沼状態にすることの2つを示しました。
以上です。
ここからは、冒頭で述べた、「軽視/蔑視しても良い勉学がある」の考え方について、検討してみたいと思います。
この考え方について、既に以下については検討を終え、(少なくとも、私は)却下しています。
しかし、ここに2015年の鹿児島県知事の「『(女子高生は←この部分は議論をややこしくするので、いったん忘れる)三角関数より花や草の名前を教えた方がいい』」というフレーズの一部、「花や草の名前」に着目してみると、ちょっと違ったモノの見え方もできます。
「花や草の名前」を、勉学の対象ではなく、コミュニケーションの道具であると考えるのです。友人や恋人との会話で「三角関数」の話題で盛り上がることは、かなりのレアケースだと思いますが、「花や草の名前」を会話のきっかけとする会話は、日常的と言えます。
つまり、学校教育の目的を、勉学そのものではなく(勉学は単なる手段)であり、その目的は、社会生活を行う上での、他人とのコミュニケーション手段の完成にある、という考え方です*)。
*)私が「たった一人の戦争」であると位置付けたリカレント教育とは、真逆の立ち位置になります。
この考え方を拡張すると、「三角関数不要論」は、一定の説明が可能となります。
古文、歴史、体育、英語、現国などと比較して、数学は、他人の介在を否定し、怜悧(れいり)なロジックによる、一切の妥協のない、唯一解を求める、非コミュニケーションの帝王であると言えます。
コミュニケーション絶対至上主義の我が国 ―― 和を以て貴しとなす(by 厩戸王(聖徳太子)) ―― において、数学は国是に反する学問であり、非国民的と非難され得る被差別学問である、と言える訳です。
学校教育の目的を、「勉強による知識の取得、知性の向上」と考えずに、別の存在意義(価値観)を持ち込むことによって、「軽視/蔑視しても良い勉学がある」という考え方は成立し得るのです ―― かなり強引なロジックではありますが。
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