ここまでを振り返ってみると、国のレベルで考えると、GDPがあるレベルに達した後は、GDPと幸福感が必ずしも比例しなくなっていることが分かる。
求める「幸福感」の種類が、おカネやモノ、地位から、安心や心身の健康、人と人との心のふれあいなど“持続する幸福感”へとシフトしていくのだ。この“持続する幸福感”こそが、今後の重要な価値観として今、浮上しているのではないだろうか。
実際のところ、こういった考え方は21世紀に入って間もなく、さまざまな形で現れ始めている。例えば、2002年に米国心理学会によって心理学の一分野として正式に認識されたポジティブ心理学(Positive Psychology)。精神疾患を治すことよりも、個人や社会を繁栄させるような強みや長所を研究する心理学の一分野である。今後の価値観を考える上でも、「何が人生を生きるに値するものなのかを探求し、そして生きるに値する人生を可能にする状態を築き上げていくこと」を目的とするポジティブ心理学からも大きな示唆が得られるのではなかろうか?
また、国連は2012年に毎年3月20日を「国際幸福デー(The International Day of Happiness)」と定めた。この日を中心として「幸福の追求」をテーマにさまざまな取り組みが行われ、また、世界がより幸福であるようにと願うとともに「幸福とは何か」について考える日でもある。物質的な経済成長ではなく、人類の持続可能な発展、貧困撲滅、幸福の追求のためには、より包括的でより公平なバランスの取れた経済成長へのアプローチが必要というのがその考え方のベースとなっている。
国連事務総長は、「国連加盟国は経済成長、社会開発、環境保護という三本柱を統合することにより、持続可能な開発に向けてバランスの取れたアプローチを採用する必要性に合意した。そして、よりよい政策決定の参考とするため、国内総生産(GDP)をより幅広い進歩の尺度で補完すべきだという認識に達した」とのメッセージを発している。
冒頭に述べたように、確かにイノベーションは経済成長を後押しし、日本はイノベーション立国を進めるべきだが、その目標は、単にGDPの数値を押し上げるためではなく、“持続する幸福感(持続するSWB)”を実現するためのものであるべきだ。そして、その延長線上として、「コロナ後の新しい価値観を探る 〜3つのウェルネスとデジタルアクセラレータ」でも述べた、「SDGs(持続可能な世界の成長)」や「3つのウェルネス(地球のウェルネス、社会のウェルネス、人のウェルネス)」などが実現されていくのではないかと思う。
そして、さらにもう一つ、「使い方によっては、イノベーションは必ずしもメリットだけをもたらすわけではない」ことも自覚しておくことが重要だ。
例えば、スマートフォンを誰もが所有するようになり、チャットアプリが連絡手段の主流となっている今、いきなり相手に電話をかける人は、固定電話しかなかった時代に比べて大幅に少なくなっているに違いない。電話をかける時に「いついつ電話で話せる?」といった具合に“アポ”を取る人も多いのではないか。相手の貴重な時間を尊重するという観点では、理にかなった良い行動なのかもしれないが、筆者は何となく寂しさも感じるのだ。友人でも家族でも、同僚でも、たまには「元気にしてる?」といきなり電話を入れたって、いいのではないだろうか。特に新型コロナウイルス感染症(COVID-19)の感染拡大で、外出や旅行はおろか、帰省すら難しくなっている今の時代、誰かに電話をして声を聞くだけでも心が安らいだ、という経験をした人も多いと思う。スマホというイノベーションは、「電話する」という行為について新しい常識を生み出したが、全ての人、全てのケースにとってメリットだけではないことが分かるだろう。
イノベーションは、使い方こそ全てなのだと筆者は思う。そして、その使い方とは、何度も述べたように“持続する幸福感”を実現するためであってほしいのだ。
それには、技術だけを考える理系的な知識の他に、哲学、文学、社会学、歴史学など人文系の教育が、理系の教育と同じくらい、あるいはそれ以上に必要だと思う。それでこそ、「イノベーションそのもの」と「イノベーションの活用法」を、バランスよく考えられるようになるのではないか。
例えば「ヒューマニティとテクノロジー」という学科あるいは講座が大学で開設されているかをザっと調べたところ、そのような講座は見当たらなかった。生まれたときから既にテクノロジーやイノベーションに触れる、いわゆるデジタルネイティブ世代の人々が増えていくこれからの時代、小学生からでも「ヒューマニティとテクノロジー」を考えさせる授業があってもいいのではないかと、筆者は思っている。
この連載はイノベーションの定義から始まって、イノベーションのエコシステムをうまく築いてきたシリコンバレーの歴史や現状を紹介し、そのシリコンバレーを活用しようとする日本企業について語った後、焦点を国内に移して日本のベンチャーエコシステムについて議論する、という道をたどってきた。
イノベーションは確実に日本を救う。だが、イノベーション立国の実現には、シリコンバレーのカルチャーの根本である「オープンネス」と「失敗に対する寛容さ」の2つを根付かせることが必要だ。時間はかかってもこうしたカルチャーが根付いた暁には、日本が、“持続する幸福感”を実現するためのイノベーション立国になっていると筆者は信じたい。
最後になりますが、これまで長い間お付き合い頂いた読者の皆さんには心から感謝致します。また、辛抱強くかつ精力的に原稿の編集に力を注いでくださった、EETimes Japanの村尾麻悠子さんに心からお礼申し上げます。
⇒「イノベーションは日本を救うのか 〜シリコンバレー最前線に見るヒント〜」連載バックナンバー
石井正純(いしい まさずみ)
日本IBM、McKinsey & Companyを経て1985年に米国カリフォルニア州シリコンバレーに経営コンサルティング会AZCA, Inc.を設立、代表取締役に就任。ハイテク分野での日米企業の新規事業開拓支援やグローバル人材の育成を行っている。
AZCA, Inc.を主宰する一方、1987年よりベンチャーキャピタリストとしても活動。現在は特に日本企業の新事業創出のためのコーポレート・ベンチャーキャピタル設立と運営の支援に力を入れている。
2019年3月まで、静岡大学工学部大学院および早稲田大学大学院ビジネススクールの客員教授を務め、現在は、中部大学客員教授および東洋大学アカデミックアドバイザーに就任している。
2006年より2012年までXerox PARCのSenior Executive Advisorを兼任。北加日本商工会議所(2007年会頭)、Japan Society of Northern Californiaの理事。文部科学省大学発新産業創出拠点プロジェクト(START)推進委員会などのメンバーであり、NEDOの研究開発型ベンチャー支援事業(STS)にも認定VCなどとして参画している。
2016年まで米国 ホワイトハウスでの有識者会議に数度にわたり招聘され、貿易協定・振興から気候変動などのさまざまな分野で、米国政策立案に向けた、民間からの意見および提言を積極的に行う。新聞、雑誌での論文発表および日米各種会議、大学などでの講演多数。共著に「マッキンゼー成熟期の差別化戦略」「Venture Capital Best Practices」「感性を活かす」など。
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