今回から「嗅覚」の概要をシリーズで取り上げる。本稿では、「におい」を感じる意味とその複雑さについて解説する。
電子情報技術産業協会(JEITA)が3年ぶりに実装技術ロードマップを更新し、「2022年度版 実装技術ロードマップ」(書籍)を2022年7月に発行した。本コラムではロードマップの策定を担当したJEITA Jisso技術ロードマップ専門委員会の協力を得て、ロードマップの概要を本コラムの第377回からシリーズで紹介している。
本シリーズの前回までは、第2章「注目される市場と電子機器群」の第3節(2.3)「ヒューマンサイエンス」の第3項(2.3.3)「人間拡張」から6つ目の項目「2.3.3.6 味覚」の概要を3回にわたって記述してきた。今回からは、7つ目の項目「2.3.3.7 嗅覚」の概要をご説明していく。
嗅覚から得る情報、すなわち「におい」は最も根源的な感覚である。ヒトはふだん、視覚と聴覚によって主に外界の情報を得ている。視覚情報と聴覚情報から、直接的な危険の兆候を瞬時に得ることは難しい。これに対して「におい」は、有毒ガスや腐敗ガスなどの危険に対する警戒心を瞬時に喚起する。身を守るためには不可欠の感覚だと言える。
においの元となる化学物質(におい成分を含むガスの分子:におい分子)が鼻に入ると、鼻の孔(鼻腔)の天井(天蓋)にある鼻粘膜にガスが溶け込み、粘膜内に侵入する。鼻粘膜内には、「におい」を感じる細胞(嗅細胞)の樹状突起がある。におい分子がこの樹状突起に付着すると嗅細胞が興奮し、電気信号が発生する。
鼻腔は左右2つあり、鼻粘膜も2つある。鼻腔の天蓋に位置する嗅細胞の集合は郵便切手(通常切手)ほどの大きさで、片側に約500万(両側では1000万)の嗅細胞が分布している。鼻腔が2つあるのは、鼻粘膜の洗浄を交互に実施するためである。つまり左右の鼻腔はどちらかが常に呼吸を主導しており、洗浄中でない鼻孔は空気の出入りが多い。また2つの鼻腔はにおいを立体的に捉えることに役立つとされている。
前述のように、におい分子によって興奮した嗅細胞は、電気信号を発生する。電気信号は嗅覚神経を通じて嗅糸球体へと伝わり、さらに僧帽細胞で電気信号を統合して大脳へと至る。大脳では嗅覚野を中心に連合野、言語野などにも信号が伝わり、広い範囲で総合的ににおいを認識する。感覚の信号が大脳の広範囲に伝搬する現象は、味覚や視覚、聴覚では見られない。このことが嗅覚に複雑さ(後述)をもたらす理由の一つと考えられている。
におい分子の正体は普通、分子量が30〜300ほどの揮発性有機化合物である。重合する分子数が低いので、通常は気体(ガス)として存在し、大気の流れに沿って移動する。無機化合物は基本的には無臭なのだが、「におい」を発する分子もわずかながら存在する。具体的には、オゾン、塩素、臭素、硫黄、硫化水素などがある。いずれも不快な刺激臭を発するとともに、人体にとって有害な分子であることが多い。
嗅細胞は嗅覚受容体を備える。ヒトゲノム解析によると約400種類の嗅覚受容体がある。この種類数は味覚受容体のおよそ10倍に達しており、非常に多い。またヒトがにおいを感じる分子の種類(人工的に合成された有機分子を除く)はおよそ40万にのぼる。
「におい」の感じ方は単純ではない。同じガス分子でも、濃度によってにおいが違う。例えば香料として知られる「麝香(じゃこう)」は、濃度を高めると悪臭に転じる。類似構造の有機物でもまったく違うにおいであったり、まったく異なる構造の有機物でも類似のにおいであったりする。
そして地域による差異、年齢による差異、個人による差異があり、さらには同一の個人でも体調による差異がある。外崎肇一著、「「におい」と「香り」の正体」(青春出版社、2004年5月発行)によると、赤ちゃんは酪酸(むれた靴下のにおい)を嫌がらない。それどころか実験(もちろん靴下ではなく酪酸のにおいを嗅がせる実験)によると、成人の半数は酪酸のにおいを嫌がらないという。また女性はにおいに対する感度が生理(厳密には女性ホルモンの影響)によって変化することが確認されているとする。
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