それはさておき。
説明をふっとばして「余剰価値理論」の結論だけをぶっちゃけて説明すると、「会社は会社であるという理由だけでもうかる。もうかるのだから、働きたい人間は全員雇用する義務がある」という理屈です*)。
*)「経済学のド素人がアホなこと言ってんじゃねえ!」という突っ込みは、今は無しの方向でお願いします。
ここで注力すべき点は、その時代、雇用の条件として「能力」という言葉なんぞ、どこにも出てこなかったということです。「能力」は(出世や給与の条件にはなるかもしれなくとも)、雇用の条件とはされていなかったのです(乱暴に言えば、『どんな会社も「金」はあるんだから、「雇用」しろよな、オイ、コラ』という感じ)
しかし、1970年ごろに、日本の均一労働賃金形態に対して、「優れた能力のある人」と「そうでない人」の間に、賃金格差がないのは変じゃない? という ―― これも考えてみれば、当然の―― 新しい考え方が出てきました。そして、これが、わが国の「格差社会」の開始地点であったと見ることもできます。
ところが、現在、この「能力」の考え方は、日本の均一労働賃金形態に対する、「ボーナスポイント」ではなく、それどころか「雇用条件」にまで堕ち(おち)てしまっているのです。
つまり、
―― 能力のない者は、雇用しなくてもよい
という論理付けと正当化が、公然とされてしまっているのです。
そして、ここが重要なのですが、現時点において「能力がある」とか「能力がない」とは、どういう状態であり、どんな計測手段があり、どのような閾値で判断され得るものであるのか、誰も定義できていないのです。
そこで1つ、「能力が雇用条件である」という仮説での思考実験をしてみたいと思います。
私は、脱サラして、ある製品開発とサービスを行う会社を、新たに立ち上げたいと考えている、とします(内容については省略しますが、具体的に江端の頭の中でイメージはできています)
この場合、私は、新たに社員を雇用しなればなりませんが、私が現在の日常生活の中で、雇用したいと思わせる能力の人間がいるか、を具体的に検証してみました(私の、現在のウイークデーの就労環境については、文末のプロフィルを参照してください)
―― うん、いらない。全然いらない。というか、むしろ邪魔。
これが公平な比較方法でないことは分かっています。それぞれの会社には、それぞれの会社のやり方があり、顧客があり、目的があるのですから、仕方がないことです。
それに、今、私が「全然いらない」という人だって、私の立ち上げた会社に来てもらえば、私の方針に基づき、働き方やその内容を修正して、うまく働いてくれるかもしれません。
いずれにしても、どんな人材であれ、その現場に放り込んでみないと、どのような「能力」を発揮するか分からないものなのです。つまり、普遍的かつ絶対的に価値のある「能力」というものは、存在しないのです。
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