そもそも、標準偏差や、標準偏差から導かれる正規分布(後述)や偏差値という概念がないと、この世界はとんでもないことになります。
上記は、偏差の概念のない世界を想定した場合の一例です。実際のところ、標準偏差が使えなれば、この世の中は1mmも動かない、といっても過言ではありません。
『偏差値教育』なるものに登場する『偏差値主義』なるものが『人間の能力(学力)を数値化である』というのであれば、それは誤解であると断言できます。
なぜかといえば、(後述しますが)偏差値とは、単にテストの点を、ある式を使って変換した後の点数のことで、これ以上でも、これ以下でもないからです。
まあ、ここでは、その誤解を誤解のままにして、「偏差値主義」なるものが「人間の能力を数値化するもの」と考えてみた場合、その代わりとなるべき「○○主義」とは、一体何になるのだろうか、と考えてみました。
「縁故」「血縁」「カルト」までは、私たちの誰でも、上記の赤字で記載したデメリットを言うだけで簡単に否定できてしまいます(民主主義を前提としないなら別ですが)。
検討すべきは「人格主義」ですが、この主義を貫くためには、万人が納得できる「人格」なるものを定義しなければならず、かつ、その「人格」なるものを客観的に評価できるものでなければなりません。
さらに、ここでは「偏差値主義(≒数字主義)」を否定している以上、「人格」の評価に数値を使うことは許されません。例えば、優れた人格のチェック項目の「チェック数」で、人格を評価することは「人格主義」に反します。
つまり、「人格主義」とは、定義なく、評価項目なく、これといった理由もなく、世界の人類が一人の例外もなく「この人は人格者だ」と決める主義ということになりますが ―― そんなことが可能なのでしょうか。
これ以上もなく乱暴にまとめるならば、「人格主義」に元づく受験システムとは、「面接試験で「リア充」でさえあれば(あるいは「リア充」を演出さえできれば)、希望の大学に合格できる、という主義」といっても良いでしょう。
このように考えていくと、「人格主義」というのは、つまるところ「個人と個人」の関係でしか成立しない極めて主観的なものであり、社会システムの道具としては、全く使いものにならないことは明白です。
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