この研究を始めたとき、有吉先生から「徹底的なMASの調査」を命じられました。
そこで私は、過去30年間のMAS研究の論文をひっくり返し、世界中で使われているMASツールを片っ端から調べ上げ、その数を数えました(ちなみにこの調査の成果で、国際学会から表彰までいただきました)
その結果――「もしかしたら、これなら私がラクできるかもしれない」と思えたツールがありました。それが「MATSim」です。
この「MATSim」というのは、いわば"都市を丸ごと動かすシミュレーター界のドン"です。
欧州生まれの真面目なツールなんですが、中身はかなりエグい。一度セットアップすると、何十万人もの人間(=エージェント)が「家を出て、電車に乗って、職場で働いて、帰宅する」まで、勝手に動き出します。しかも彼らは、ちゃんと学習もする「らしい」。「昨日の通勤ルートは混んでたから、今日はバスにしよう」なんてことを、平然とシミュレーションの中でやってのけるんです。
要するにMATSimとは、「シムシティの中で市民が自分の意思で勝手に生き始めた」状態を、研究者が“本気の数式とアルゴリズム”で実現するMASツール「らしい」です。便利だけど、気を抜くと、自分がシミュレーションされる側に回りそうな、そんなちょっと危険な香りのするツールです。
「さっきから江端は“『らしい』”を乱発しているけど、一体なんなんだ?」――そう気付かれた方もいるかもしれません。
実は私、MATSimをちゃんと使ったことがありません。もちろん、動作確認やサンプルテストくらいはやりましたが、まだ実際の研究や分析には使っていないのです。
そんな江端が、MATSimで連載を始めようとしている―― 一体、何を考えているのか?
何も考えていません。
今回もまた、「まず始める。それからのことは後で考える」です。性懲りもなく、私はまた同じことを繰り返そうとしています。
でも、こうでもしないと、学位取得後のふぬけた私は、MATSimの勉強を始めることも、続けることもできません。だから私は、EE Times Japanという看板を背負って、退路を断ちました。
思えば、「英語に愛されない」も「お金に愛されない」も、「AI」も「EtherCAT」も「数字」も、どの連載もいつだって「まず始める。それからのことは後で考える」でやってきました。
――ぶっちゃけ、私はこの“自分の背中を蹴り倒して前に進む”方法しか知らないのです。
そして今回もまた、生贄として捧げられるのは、あなた(読者の皆さま)です。これまでどおり、どうか諦めてお付き合いください。
スマートでエレガントで、静かな日々を過ごすリタイアエンジニア――にはなれなかった私ですが、この連載でも(そういえば「お金」シリーズもまだ終わっていませんでしたね)、引き続き、私のドタバタ劇にお付き合いいただけたら本当に嬉しいです。
何のために、多くの時間を使って、誰かの役に立つかどうかも分からないものを書いているのか――それは私にも分かりません。
家族は言うまでもなく、会社も、大学でお世話になった先生も、大学の広報の方も、『江端は一体何を考えているんだ?』と首をかしげていると思います(実際に、そう言われてもいます)
私の書き残したものは、コラムであれ、論文であれ、特許明細書であれ、この先、多くの人に忘れ去られていくでしょう ―― 残念ながら、これを否定することはとても難しいです。
目の前のことに奔走し、全力を注ぎ、うまくいけば成功することもあるかもしれませんが、多分、その成功は次の日にはリセットされる ―― 私だけでなく、私たちの人生は、究極的には「失敗」とか「成功」とか、そういう言葉では語れないような気がします。
「一生懸命やったことのご褒美は、一生懸命やったことだけさ」*)
それだけで十分じゃないかな――と、私は思うのです。
*)英語の格言「The reward of a thing well done is to have done it.」に対応する表現。三原順『はみだしっ子』Part.15「カッコーの鳴く森」(通称「クークー」の章)終盤でのアンジーの台詞の江端風解釈
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