私はかつて、会社に依存せずに生きていけるように、弁理士試験の勉強を続けていました。当時は、『3年から4年も本気で勉強すれば、いずれ合格できるだろう』と、その程度に考えていました。
実際、一次試験には、何度か合格していますが、問題は、二次試験(論文試験)でした。結果だけを書けば、私は弁理士試験に10年連続で落ち続けました。
もし、成績が振るわず、明らかに「適性がない」と分かる状況であれば、もっと早く諦めがついたのかもしれませんが、しかし、現実は逆でした。毎週の模擬試験では、私は常に上位にいました。後半の5年間は、主席か次席という状態が続いていました。「なぜ受からないのか分からない」と「今年こそだろう」の心の揺れは、私を少しずつ壊し続けました。
10年目の、ある日のことです。駅のプラットフォームに立っていると、自分の足が、勝手に前へ出ようとしていることに気が付きました(関連記事:「大いなるタブーなのか――人身事故を真面目に検証する)。その瞬間、私は初めて「あ、もうダメだ」と理解しました。そう判断して私は受験を断念し、家族にもその旨を伝えました。
努力と根性があっても、どうにもならないことは、確かに存在する ―― 自分の才能の限界が、これ以上ないほど明確な形で「可視化された」という事実は、『自分が無能である』ことを私に突き付けて、私の中に長く残る深い傷となりました(私財を投じた10年間の法学ゼミへの投資コストは、全てサンクコスト(埋没費用)となったのです)。そして、私は、この「自分の無能さ」を、どこかでウヤムヤにしてくれる「何か」を、ずっと欲し続けていたのです。
実家の両親の介護は、実家の近くに住んでいる姉が中心になって担ってくれていましたが、「姉が倒れれば、私も倒れる」という前提は、常に頭の片隅にありましたし、両親が死線をさまようという状況は、介護において避けて通れない現実でした。
介護の「終了」とは、親の「死去」のことです。どれだけ綺麗な言葉を並べようとも、この事実は変わりません。この点については、以前の連載「誰がために「介護IT」はある?」で詳しく書いていますので、文句のある方は、まずそれを全部読んでから私にチャレンジしてください。
デイケアや病院から突然かかってくる電話、繰り返される「危篤」の通知、そのたびに新幹線に飛び乗り、その日のうちに戻ってくる生活は、精神的にも時間的にも確実に消耗していきました。
定期的な胃ろう器具の交換の立ち会い、デイケアが休みになる長期休暇期間の帰省、帰省中の家事や自宅のメンテナンス、さらには各種の行政手続きまで含めると、介護中、あるいは入院中の親は、いつ爆発するか分からない爆弾のような存在でした。
仕事と介護の両立は、「それをやったら立派」という話ではありません。それをやらなければ、親と自分、そして自分の家族の生死に関わるという、逃げることのできない強制的な「両立」です。
父が亡くなり、そして母が亡くなったとき、私は爆弾が一つ確実に消滅したことに気が付きました。そしてその瞬間になって初めて、非常事態に身構えることなく「自由に使える休日」という概念を、長い間、自分が忘れていたことに気づいたのです。
私は長い間、MAS(マルチエージェントシミュレーション)を応用した研究を続けるための研究費を、社内の事業部や工場など、あちこちから引っ張ってきて研究を続けてきました。
特許明細書を書き、論文を書き、ソフトウェアやシステムを実装し、それなりに「成果」と呼べるものは積み上げてきたと自負していますが、残念ながら、それらは事業化には結び付きませんでした。
企業は、もうけてナンボの組織です。私の研究が知財として、あるいは学術的に価値があったとしても、それが「金」に結び付かないのであれば、投資を差し止めるという判断は、至極まっとうなものです。
事業化の努力を怠ってきたつもりはありませんが、「金」の世界では、「プロセス」ではなく「結果」が全てです。私が使ってきた研究費が、その金額に見合ったリターンを生んでいないと見なされても仕方がなかったと思います。
私は、MASの知見と、法学ゼミで履修してきた知識を組み合わせた、「新興ベンチャー企業をたたきつぶし、乗っ取るための知財戦略」といった、かなり攻撃的な提案まで考えていましたが、どうもそれは、会社にとって受け入れ難い内容だったようで、軽くスルーされてしまいました。
こうして、私が目指していた、MASを用いた「アナログ心理とデジタルロジックの融合」に関する研究資金は、事実上、途絶えることになりました(最近、少しだけ風向きが変わりつつありますが)。
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