私の母は、ことし(2022年)の1月に他界しましたが、その母が、10年前に、施設に1人きりで置いていかれることに涙を流して悲しむ姿を見なければならないことが続き、正直、私は母のところに行くことが、どんどん憂鬱(ゆううつ)になっていきました。
叫び声を上げる母の声を後ろに去るのは、本当に後ろめたくて苦痛でした。これを誰かに代行してもらえるのであれば、いくらお金を払ってもいい、と思ったほどです。
ある日、私は母に言いました。
『人生って、本当にクソったれだよな。毎日苦しくて、つらくて、未来もなくて、そんな感じだよな。これまで一生懸命に生きてきても、全く報われやしない。でも、安心してくれ。この私も、いずれ、お袋と同じように、苦痛の日々を経て、最高に惨めったらしく死んでみせるから。それだけは約束する。だから ―― 諦めてくれ』
私が、自分の心情を母に吐露した時、母がハッとしたような表情になって、それからの母は、おとなしくなったような気がします。
「人生なんて、しょせん『クソったれ』」という身も蓋もないものでしたが、私の心の底から出てきたその言葉は、ほんのわずかでも、母の心を軽くしたのかもしれません。
今になって思えば、私はこの時、初めて「説法」をしたのだと思います。
父も、晩年は自分が何者か分からなくなり、母と同様に苦しみながら、病院のベッドで死を迎えました。愚直ではあったけど、誠実に人生を生き抜き、このひねくれた私(江端)の、全面的な尊敬と信頼を獲得した父の最期が、このような形で終了したことに、私は、今でも激しい怒りを感じています。
人生を一生懸命生きる意義はあるのか? 自分の人生で守り続けなければならないものがあるのか? ―― 父の死後、私は、出世とか、向上とか、自己啓発とか、その手の考えを全て放棄しました。父の死は、私の「どんな人生も、等しく、クソったれ」を、さらに強化しただけでした。
「徳を積むことで神の国に生まれる」だの、「大っ嫌いなやつを好きになれ」だの、「悪人を優先救済しろ」だの、そんな意外性のウケを狙った宗教の教えなんぞ ―― もう、いらない。
「誰も彼も、最期はクソったれな人生で終わる。その点のみで人は平等だ ―― だから、諦めろ」と、そういう話を、私は、みんなに語りたいのです。
私の目ざす宗教とは、「しょせん、この世には神も仏も、ありゃしない」という、そういう宗教なのです。
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