シバタ先生のレポートを読み終えて、しばらくぼーっとしていました。当初、お願いしたことの全てが簡潔かつ明瞭に記載されていて、『私は、この3年間、本当にすごい人とタッグを組ませてもらっていたのだ』と、ジワジワ(×しみじみ)と実感しております。
さて、もはや、私が語るべきことは残っていないような気がしますが、(と、ここまで記載した原稿を見直しているのですが)、まだ、2つほど残っていました。
上記について、私も、私なりに総括してみたいと思います。
シバタ先生と私は、職業こそ違えども、その考え方は共通していると思っています。徹底した証拠と数値に基づく理系的思考、(私の言い方でいうところの)「エンジニアリングアプローチ」です。この3年間の、新型コロナのコラムの作成作業は、シバタ先生と私が相互に協力し、かつ、相互に監視しながら(出典を確認するなど)、このアプローチに徹してきました。
私たちが自慢して良いことは、その時点における最新の情報のみを使い、できるだけ主観を排し、かつ、どのような意見も理由なく採用または却下をしなかった、と、確信をもって言えることです ―― というか、それは、私たちのような分野に関わるものの「宿命」とも言えるものであり、別段、自慢に値することではないかもしれません。
また、エンジニアリングアプローチからは、ちょっと離れますが、この新型コロナシリーズにおいては、基本的に「正解が”ない”または”分からない”」という状態での、暗中模索での執筆作業の日々でした。その中でも、私たちは、自分なりの意見をちゃんとまとめて言語化してきたと自認しております。これは、正直「逃げを打ち続け、はっきりと自分の見解を述べない”新型コロナの記事”」とは一線を画してきたと自負しております。
ただ、「逃げを打たない」ということは、間違っていた場合、取り返しのつかない事態を引き起すというリスクもあったわけで、シバタ先生も私も、毎回コラムのリリース時には、それなりの覚悟をしていました
例えば、私のブログの『そこで提案ですが、いっそのこと「私(江端)を信じてワクチン打ってみませんか?」』では、
それで、お子さんに不幸が見舞われたら、私を訴えて、呪って、私の生きている限り非難し続けて、必要なら私に復讐(殺害を含む)していただいても結構です。さらに、その事件の裁判ではこのメールを証拠として提出していただき、さらには全世界にこのメールをばらまいていただいても結構です。
SNSなどを見ていると『シバタ先生と私のコラムを読んで、ワクチン接種を決断した』という人が、わが国には少なからずいるようです。私は、「その人たちをそそのかした当事者として、断罪される」覚悟があります。
と、書いています(筆者のブログ)。
そんでもって、この内容は、今も有効です。これから先、例えば『mRNAワクチンを接種した人から、ボロボロと死んでいく未来』がやってくれば、私は、その責任(は到底負えないでしょうが)と、汚名を背負って生きて、惨めに死んでいく(か、殺される)覚悟があります*)。
*)シバタ先生は、私に炊きつけられただけですので免責してください。責めは、私(と担当の村尾さん)の2人で負います(村尾さんの許諾なし)。
これは、「自慢」というよりは、「覚悟」と言うものかもしれません ―― いや、これは、覚悟していることを自慢しているのですね。
次に、「反省しなければならないこと」は何か、を考えてみたのですが ―― どのコラムも、一言で言って「難しい」、そして「長い」です。
基本的に、新型コロナシリーズのコラムは、
(Step 1)私がシバタ先生に質問を投げる
(Step 2)シバタ先生から、期待以上の質と量のレポートが戻ってくる
(Step 3)これを、(楽しみながら)読む。分からない言葉をネットで調べて、自分でも分かる言葉に置き変えたり注釈を付けたりする。必要に応じて、図や表も作ってみる
(Step 4) シバタ先生に送って、原稿をチェックしていただく
(Step 5) O.K.をいただいたら、編集部の村尾さんに送る
という流れで作成されていきます。
今回、自分でコラムを読み直してみたのですが、自分で書いたはずの原稿の内容が、やたら難しくて、長い。いや、書いた時には、100%理解しているはずなんですよ。だって、最後に編集して、EE Times Japan編集部に原稿を渡したのは、私(江端)ですから。
この理由、私は良く知っています(特許明細書の執筆の時にも発症する) ―― というのは、原稿を書いている時は、膨大な量の情報が、私を取り囲んでいて、ちょっとした興奮状態、というかトランス状態になっているんですね。気分は、新型コロナ感染の最前線で戦う医療従事者、あるいは、パソコンをにらみつけながら、mRNAワクチンの塩基配列を設計している技術者です。
気分は、右図のイラストのような感じです(『江端的最終手段――「神を降臨させる」』をご参照ください(関連記事:「英語の文書作成は「コピペ」で構わない」)。
しかし、一度その状態から離れると、私も一人の読者です。「トランスハイ」の状態になっている江端なんぞと、まともに会話できるわけがありません。今回、新型コロナシリーズのコラムを読み直している最中に、私がずっとつぶやき続けていたことは、
―― 江端、ちょっと落ちつけ!
でした。
もう、手遅れですが。
第1回の「ある医師がエンジニアに寄せた“コロナにまつわる現場の本音”」のPV(ページビュー)は、すごかったです。本当にすごかった。EE Times Japanの記事ランキングの1位を、1カ月以上も維持していたほどです。
このコラムは、シバタ先生が、私(江端)個人に送ってくださったメールを、私の独断で、1日で原稿としてまとめて、編集部から即日O.K.をもらったという、かなり異例な形でリリースされたコラムでした。『私が知りたかったことは、まさにコレ!』と思ったことが、読者の皆さんにも、うまくハマった、という感じでした。
その後も、シバタ先生と私の共同執筆のコラムシリーズは続き、そこそこ人気があったのですが、第1回ほどではありませんでした ―― 私は、どの回のコラムも興奮しながら、シバタ先生のレポート(シバタレポート)を読み、編集をしていたのですが、私が思うほどには、読者の皆さんの反応は良くなかったような気がします。
なぜかなぁ、と考えてみたのですが、内容がちょっと専門的すぎたかなぁ、という気がしています。私、ワクチンの設計をコンピュータで行う、という話で、鼻血が出そうなくらい興奮したものですが ―― 世の中の多くの人にとって、ワクチンの製造プロセスなんぞ、どーでもいいことだった、と今なら思えます。
先ほどの「長い」も理由の一つかもしれません。シバタ先生も、私も、長文の論文(や特許明細書)を、毎日山ほど読むことを生業(なりわい)としていますが ―― そういう仕事を日常とする人は、きっとそんなに多くない。
つまり、シバタ先生も、私も、自分たちの特殊な日常を、そのまま読者の非日常に押しつけてきたのかもしれません。これは、世間に『何か』を分かってもらうこと、という観点では、非常にアンフレンドリー(非友好的)であったと思います。
新型コロナシリーズのコラムは、読者に対する「思いやり」よりも、「新しい技術や統計や数値に狂乱乱舞した執筆者ファースト(と、それを制御できなかった編集者)」のコラムであった、と認めましょう。
本シリーズのコラムの最後のページにたどりつけた読者の方のみが、この狂乱の宴に参加できる、という、非常にレアな読者層になってしまったことを、はんせ……、いや、少なくとも私(江端)は、反省しないぞ。
*)すみません、編集担当も反省しておりません。
なぜか? シバタ先生と私が、踊り狂いながら執筆したからこそ、(EE Times Japan編集部を踏み台として)これらのコラムはリリースされてきたのですから。
正直なところ、狂気なくして、こんな”怖い”コラムの執筆はできませんよ。
―― 『誰かの命の決断の後押しをするコラム』なんて。
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