読者の皆さんは、企業や大学が実証実験(PoCを含む)を行うと聞くと、「大人数のプロジェクトメンバーがいて、潤沢な資金が投入されている」――そう思われるかもしれません。
しかし、はっきり言います。それは幻想です。
実際には、まったく足りない予算と期間、ショボい人員(下手をすれば“1人”)、そしてラップのように極薄なサポート体制――いや、サポートどころか、不要な打ち合わせを設定して時間を浪費させる“上”の人間たちに囲まれて、進められているのが現実です。
特に、この「怒りMaaS」のシステムは、基本設計から実装まで――ほぼ私1人による構築作業でした(クラウドシステムの一部は外注し、機材も購入しましたし、サポートしてくれる同僚が1人いてくれたのは幸運でしたが)
それでも、私はラズパイの回路にセンサーをはんだ付けし、車内に機材を装着し、スマホのアプリを作り――そして何より最悪だったのは、システム全体を把握していたのが私1人だけだったという点です。
お客さんがついている場合は、仕様書や設計書は、もちろん必要です。でも、小規模のPoC実証でそんなものを作っている時間なんてありません。
――私がやれば3日で済むものを、30日かけて他人に説明しますか? そんなことはありえません。
野球の審判が言う「私がルールブックだ!」という名台詞がありますが、実証実験の現場では「私が仕様書で設計図だ!」が普通に成立するのです。
システム全体図を頭の中に描けていたのが、世界で私1人――それが、このプロジェクト最大の障害でした。
それから私は、セレナで大学キャンパス内を走り回り――たぶん、合計100周はしたと思います。最適なルートを見つけるために、実地で何度も試行を繰り返しました。
さすがに、この様子を見かねた上司が言いました。「それくらいのことは若手に任せろ」と――でも、違うんです。そうじゃないんです。
GPSの誤差が発生しにくく、十分な距離があり、移動の意味があり、しかも安全に停車して乗客の乗降ができるルートを見つけるには、次の条件を全て満たす必要がありました。
(1) 全システムを稼働させながら
(2) 日産セレナを運転しながら
(3) 運行用タブレット(iPad)を睨みつけながら
(4) 5台のスマホを同時に操作しながら
という、ほとんど人間離れしたオペレーションを同時に行わなければならなかったのです。しかも、安全運転を絶対条件にしながら。
そんな状況で、他人に任せることなど不可能でした。もちろん、私だって誰かに助けてほしかったのですが――無理なものは無理なんです。
昨今、「困った時には、人に頼る勇気を持て」という言葉が氾濫しています。けれども私に言わせれば――「何のんきなことを言っているんだ」という気分です。
思い上がりを承知の上で言いますが、例えば小説家の東野圭吾さんが病気やスランプに陥ったとき「東野さん、そういう時は私たちに頼ってください」と言ったところで、私たちに一体何ができるでしょうか。
東野さんと私では、もちろん比較すること自体が烏滸(おこ)がましいですが、『その人の頭の中にあるものを、他人が代わりに担うことはできない』ことは、真実です。
もちろん、上記のようなシステム技術なら、時間をかければ他人に伝達できる場合もあります。しかし、その「時間」は膨大です。最低でも、私がこの「怒りMaaS」を考え続けてきたのと同じくらいの年月が必要になるでしょう。
この実証実験は、横浜国立大学のキャンパスで10日間続きました。
しかしその間、システムはほぼ毎日のように障害を起こし、パートナーと私は「動かなくなった」と報告を受けるたびに、セレナの車載システムを再起動するためにキャンパス内を走り回りました。
「そもそもシステムって、何のためにあるんだっけ?」――冷たい風が吹きすさぶ夜のキャンパスを駆け回りながら、私はそんなことを考えていました。
少なくともシステムの目的の一つには、「人間をラクにすること」があるはずです。けれども、この実証実験のシステムは、構築から運用までの全ての過程で、私を苦しませ続けました。
『羽沢横浜国大駅のホームから飛び降りたら、ラクになるかな』――そんな考えが、実験期間のどこかで、合計20秒ほど頭をよぎったくらいには、過酷な日々でした。
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