江端:「どうだった?」
後輩:「なんというか『普通』ですねぇ。この程度の話であれば、別段、江端さんでなくても書けるような内容だな ―― と思いました」
江端:「……分かった。ではレビュー結果を聞こう」
後輩:「まず、生産性の話なのですが、生産性を通貨価値で換算するという点において、既に外していると思うのです」
江端:「生産性を計算するためには、"共通の物差し"が必要だろう?」
後輩:「江端さんは、今回のコラムの生産性の対象を、一般企業とか法人格の団体として考えていたんじゃないですか?」
江端:「うん? 言われてみれば、まあ、そうかな」
後輩:「でも、法人登録していない個人が経営する工場、工務店、小売店、飲食店、美容室、学習塾、税理士などは、合計600万人を超えていて、就労人口の12%を占めているのを知っていますか?」
江端:「え? そんなにあるの?」
後輩:「個人経営をしている店舗のいくつかでは、開店や閉店の時間を自分で決めていたりしています。一般企業では当然と考えられている就労時間のような考え方は、必ずしも絶対的というものではないのですよ」
江端:「……結論から言え」
後輩:「今回のコラムで、江端さんは、生産性の定義で随分苦しんでいたようですが、それは当然です。生産性とは主観に基づいて成立するものだからです。主観に基づくものを、客観的な"物差し"で測ろうとするから無理があるのです」
江端:「いや、そんな乱暴な……」
後輩:「自分で良い仕事をしたと確信したものが、会社に全く評価されないこともありますし、優れた研究成果であっても、製品化されて売り上げに貢献しなければ、価値のある研究とは見なされませんよね」
江端:「うん、まあ、それはそうだが」
後輩:「江端さんは、これまで膨大な数の特許明細書を執筆されていますので、江端さんの特許明細書の執筆の生産性は、多分、この会社でトップクラスでしょう。しかし、会社にとって、利益に直結していない江端さんの特許明細書の生産性はゼロです」
江端:「お前、皆が気が付いていながら、決して口にできなかったことを、今ハッキリと言い切ったな ―― よし分かった。悔しいけど『生産性とは主観に基づいて成立するもの』ということを認めよう」
後輩:「それで、このコラムで"江端さんが生産性を計算する"と宣言した以上は、江端さんがやることは、経済学で使われている式をいじくり回すのではなく、"主観に基づく生産性を計算する"、つまり、"人間の心を計算する"をしなければならなかったハズです。だから思ったんですよ 『普通』だなー、って」
江端:「要求レベルが高すぎるわ!」
後輩:「その一方で、娘さんの組み上げたロジックは見事だったです。私からも、娘さんの論理を補強しましょう」
江端:「まだ、あるのか……」
後輩:「江端さんは、イノベーションをテクノロジー(科学/工業技術)と思っているのでしょうが、この時点でもう"勘違い"」
江端:「何、言ってるんだ? イノベーションとは、テクノロジーの中でも、特に優れたテクノロジーのことだろう?」
後輩:「違います。『優れたテクノロジー』は、単なる『テクノロジー』です。そのテクノロジーの価値を理解した人が、その価値を伝達可能なコンテクストに変換した上で、その人なりの影響力で、大衆に理解させた時、『イノベーション』というものに変質するです」
江端:「……」
後輩:「娘さんのロジックを補強するのであれば、『技術製造装置としての人間』と『技術をイノベーションに変換する人間』の2種類に分類できるということになります。しかし、まあ、着地点は、娘さんのロジックと同じです」
江端:「……なんか面白くないな。なんで、次女や後輩が、気が付くようなことに、この私が気が付くことができなかったのだろうか。私は不愉快だ」
後輩:「あ、それは明解ですよ。『自分のロジックは、自分では修正できない』という普遍的な真実があるからです。自分の考えは、どうしても自分のバイアスがかかるものですから、仕方がないのですよ」
江端:「そ、そうか……仕方ないんじゃ、仕方ないな」
後輩:「そうです。この程度のことを江端さんが見いだせなかった理由は ―― 江端さんの検討が甘いとか、調査が不十分であるとか、研究者としての資質を欠いているとか、知性が低いとか、そういうことでは全くないのですから ―― どうか、安心してください」
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江端智一(えばた ともいち)
日本の大手総合電機メーカーの主任研究員。1991年に入社。「サンマとサバ」を2種類のセンサーだけで判別するという電子レンジの食品自動判別アルゴリズムの発明を皮切りに、エンジン制御からネットワーク監視、無線ネットワーク、屋内GPS、鉄道システムまで幅広い分野の研究開発に携わる。
意外な視点から繰り出される特許発明には定評が高く、特許権に関して強いこだわりを持つ。特に熾烈(しれつ)を極めた海外特許庁との戦いにおいて、審査官を交代させるまで戦い抜いて特許査定を奪取した話は、今なお伝説として「本人」が語り継いでいる。共同研究のために赴任した米国での2年間の生活では、会話の1割の単語だけを拾って残りの9割を推測し、相手の言っている内容を理解しないで会話を強行するという希少な能力を獲得し、凱旋帰国。
私生活においては、辛辣(しんらつ)な切り口で語られるエッセイをWebサイト「こぼれネット」で発表し続け、カルト的なファンから圧倒的な支持を得ている。また週末には、LANを敷設するために自宅の庭に穴を掘り、侵入検知センサーを設置し、24時間体制のホームセキュリティシステムを構築することを趣味としている。このシステムは現在も拡張を続けており、その完成形態は「本人」も知らない。
本連載の内容は、個人の意見および見解であり、所属する組織を代表したものではありません。
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