後輩:「江端さんが、今回(前半)の「シバタレポート」の公開に踏み切った理由は、『情報技術(IT)で設計し、遺伝子技術(GT)で製造された人工ワクチンが、自分の体を欺(あざむ)いて、感染してもいない病気の抗体を作ってしまう』 ―― “mRNAワクチン”でしょう?」
江端:「うん、もう正直、「人工知能」とか、「量子コンピュータ」とか、その程度のテクノロジーなんぞ一瞬で消し飛ぶような大衝撃だったよ。ノーベル賞10年分の先行予約に値するイノベーションで、科学史に残る金字塔だと確信している」
後輩:「……」
江端:「それと、インシリコ(in silico)によるイノベーションである、という点が、さらにうれしいなぁ」
後輩:「……」
江端:「いやいや、私だって、コンピュータを使えば、ラクラクにワクチンが作れる、などとは思っていないよ。シバタ先生も『dry lab(コンピュータによる計算)からwet lab(生物実験、試薬と被験者による副作用の検証等)の橋渡しの間に、理論と実際のスキマを埋めるための地道な実証実験の地獄が隠れています』とおっしゃっている。もちろん、これは、私たちITエンジニアなら、当然に理解できることだけど」
後輩:「……ええ、まあ」
江端:「なんだ、ノリ悪いな。新型コロナ戦争の明るい終結がスコープに入ってきているんだぞ*)。うれしくないのか?」
*)次回のシバタレポート後半には、「怖い話」が登場します。
後輩:「江端さん。腹を割って本音で話しましょう。江端さんは、本当に心の底から、一片の曇りもなく、『世界を、完全な形で、コロナ禍発生前に戻したい』って思っていますか?」
江端:「はい?」
後輩:「もちろん、ワクチンは中和抗体が長期間続き、インフルエンザと同様の年次の予防接種などで、新型コロナの感染爆発を抑え込み続けられれば、コロナ禍発生前の世界に戻る可能性は高いと思います。文句なしに、今の感染におびえる日々より、そっちの方がいいに決まっています」
江端:「まあ……そうだな」
後輩:「しかし、私たちは、このコロナ禍によって、獲得したものも少なくはありません。まず、「腹芸」や「空気」を破壊して「言語」のみで意志疎通する「リモート会議」という文化を獲得しました。特に出席する必要もないけど、保身と同調圧力でダラダラ参加してきた「打ち合わせ」から解放されました。なにより、都心部のバスや電車の朝の通勤において、「乗客どうしの体が密着しない間隔」をついに実現しました」
江端:「うん……その通りだ」
後輩:「これまで、行政の規制や安全の補償におびえてきたITやOT(Operation Tech)の業界は、『私たちのこの20年間の努力は一体何だったのか?』と思えるほどの勢いで、自動運転やら、無人物流、無人店舗などの技術を導入して、少子高齢社会のボトルネックの一つを乗り越えようとしています」
江端:「……」
後輩:「かつて江端さんが『アホか』*)と言っていた、あの『国土強靭化基本法』などは、今や完全にスコープに入ってきています。もう、業種によっては、都市部に就労を拘る必要がなくなりつつあります。実際に、私たちITエンジニア/研究員は、在宅勤務でパフォーマンスが振り切れているくらいです」
*)参考:筆者のブログ
江端:「そ、そうかな?」
後輩:「江端さん。私は江端さんが、ひそかにOSS(オープンソースソフトウェア)のプロジェクトを立ち上げているのを知っていますよ。いままでの働き方ではできなかった、新しい働き方 ―― 江端さんが「週末エンジニア&研究員」と叫んでいる、いわゆるニュータイプの”公私混同” ―― は、その一態様です」
江端:「その件については、また後日、な……」
後輩:「なにより、ことしの冬のインフルエンザ発症率は去年の1000分の1です*)。私たちは、公衆衛生に関する新しい行動変容を獲得して、インフルエンザが『手洗い』だけで制圧できることを、図らずも証明して見せたのです。
*)次回のシバタレポート後半のメイントピックです。
後輩:「では江端さん。もう一度お尋ねしますよ」
江端:「……(ゴクリ)」
後輩:「江端さんは、本当に、心の底から、一片の曇りもなく、『世界を、完全な形でコロナ禍発生前に戻したい』って思っていますか?」
江端智一(えばた ともいち)
日本の大手総合電機メーカーの主任研究員。1991年に入社。「サンマとサバ」を2種類のセンサーだけで判別するという電子レンジの食品自動判別アルゴリズムの発明を皮切りに、エンジン制御からネットワーク監視、無線ネットワーク、屋内GPS、鉄道システムまで幅広い分野の研究開発に携わる。
意外な視点から繰り出される特許発明には定評が高く、特許権に関して強いこだわりを持つ。特に熾烈(しれつ)を極めた海外特許庁との戦いにおいて、審査官を交代させるまで戦い抜いて特許査定を奪取した話は、今なお伝説として「本人」が語り継いでいる。共同研究のために赴任した米国での2年間の生活では、会話の1割の単語だけを拾って残りの9割を推測し、相手の言っている内容を理解しないで会話を強行するという希少な能力を獲得し、凱旋帰国。
私生活においては、辛辣(しんらつ)な切り口で語られるエッセイをWebサイト「こぼれネット」で発表し続け、カルト的なファンから圧倒的な支持を得ている。また週末には、LANを敷設するために自宅の庭に穴を掘り、侵入検知センサーを設置し、24時間体制のホームセキュリティシステムを構築することを趣味としている。このシステムは現在も拡張を続けており、その完成形態は「本人」も知らない。
本連載の内容は、個人の意見および見解であり、所属する組織を代表したものではありません。
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